重いが、良かった 「愛を読むひと」(ネタばれがあります) 

友人に誘われて、映画「愛を読むひと」(スティーヴン・ダルドリー監督)を見に行った。原作はベルンハルト・シュリンク『朗読者』。相当前に読んで、半分くらいは中身を忘れてしまっていた。

(以下、ネタばれがあります。あと長いです)



1958年、ドイツ。15歳の少年マイケルが、自分を助けた21歳年上の女性ハンナと恋に落ちる。彼女は性交の前や後に本の朗読をせがむ。その後彼女は姿を消す。
再会は8年後、マイケルが大学法学部のゼミの一環で傍聴した裁判で、ハンナは、戦時中にナチ親衛隊に入り収容所の看守として犯した罪で裁かれていた。
弁護士になり、自身も結婚と離婚を経験したマイケルは33歳になって、自身で本を朗読した録音テープを服役中のハンナに送り続けるようになる。ハンナもテープを元に自身を変える行動に出る。けれども……。
というのがごく簡単なあらすじだ。
公式サイト:http://www.aiyomu.com/

まず、(外国にも松山ケンイチ似の人がいるんだなあ)と青年時代のマイケルを演じたデヴィッド・クロスを見て思った。聞き取りやすい英語で(もしかして、わたし、英語のヒアリング能力上がった!?)と思ったら、何のことはない、あえて、出演者全員、ドイツ語訛りの英語で喋っていたのだそうだ。

その後、ハンナ役のケイト・ウィンスレットが素晴らしかったこともあって、すぐに物語に引き込まれた。
友人が教えてくれたのによると、刑務所でのハンナの様子は原作では殆ど窺い知れないそうだ。

ハンナが抱えている秘密が、周囲に証拠をねつ造されての、一人だけ重い無期懲役の判決を受け入れてでも隠すものなのかどうか、想像しようとしてもなかなか想像できないところはある。夫が仕事の電話をしているとき、まったく分からない単語の羅列で疎外感を感じることはあっても、ハンナの苦しみの何万分の一にも届かないかもしれない。「見えていても、見えない、わからない」ということが、文字だけでなく知識や倫理観にまで徹底しているのだと思った。

マイケルも、ハンナを愛しながらも彼女の、マイケル自身の心や身体への罪や囚人への罪を許せない葛藤があるのはわかるけれど、弁護士になって、また、ハンナが刑務所で本を読むようになってからでも、何度でも、彼女に有利な事実を明かして彼女を救い出すチャンスはあったのに、と思う。
でも、そうしなかった、ということは、やはり「許したくなかった」のだろう。
同時代の同じような人、戦時中にユダヤ人に対して行動面でマイケルのようだった人はいくらでもいると思うし、事柄や対象を変えれば現在でもドイツに限らずいくらでも似たようなケースはあるとも思う。

手元にシナリオがないのでうろ覚えだが、「どう思うか、感じるかと、どう行動するかは全く別物だ」という趣旨の台詞が出てきて、「ベルリン・天使の詩」で見て以来のブルーノ・ガンツ(大学の教授役)の表情・声・佇まいや、最後の方の、この台詞と対になったハンナの「どのように思っても、感じても、やったことは変わらない」という言葉とともに、とても心に残っている。

刑務所でハンナがナチ関係の本を進んでたくさん読んでいたことは明かされる。収容所での行動以外の行為についても、読書が影響を及ぼしたことはあったと思う。

付き合っていた頃にマイケルに『チャタレイ夫人の恋人』を朗読してもらって、不道徳だからやめろ、と急に怒ったときのハンナは、チャタレイ夫人の行動と自分の行動に繋がりを見いだせることなど思いもよらなかったかもしれないし、もやもやと何かは感じたとしても、怒りの発散で紛らわすことしかできなかったのではないか。

「バスの一両目(自分の近く)に来なかった」と怒ったときも、マイケルにほかの考えがあったことを予想できない。
でも、刑務所で本を読むうちに、ほかの読み取り方、ほかにとり得た行為などの選択肢を、自分一人の頭や経験では思いつけないものまで知ったのではないかと思う。

ただ、読書にはそのような恩恵ばかりでなく、「自分や他人の感情や行動を言葉で表せることを知る」ことによって、見たくないもの、受け入れたくないものを受け入れなければならないこともあると思うので、ただ怒って発散していればよかったのが、内向の方向に行くこともあるのではないかと感じた。
(それでも、思うこと・感じることと自分の行動との間に距離を置くものを自身の内に蓄えることは必要だと思う。)

あそこでああしていれば、何か変わったのではないかというところが本当にいくつもあった。
出所する一週間前のハンナとマイケルの面会での「過去」という言葉についての解釈の齟齬が、ハンナの行動を決定的に決めたように見えたが、ここまでの間に、マイケルが一方的にテープを送るだけでなく、ハンナの手紙に返事を書いたり、手紙や面会を含めて「本のことばっか書いてくるけど犯した罪に対してはどう思ってるの」と投げかけたり、と話をしていれば、違ったのではないかと思う。

それがなければ、互いの気持ちの奥底に愛があっても、やはり相互的なコミュニケーションではないのだと思う。
これ以上傷つきたくないという恐怖を踏み越えて、マイケルには「あえて見ない、触れない行為」を打破してほしかった。
でも、思いを抱くことが互いの生きる支えになっているのだから、意味がないとは決して言えないのも確かだ。

期待した反応が相手から得られない場合にもなお、相手のことを想像する力があれば、マイケルにも、ハンナにも、違う結末があっただろう、と思わずにいられない。
でもそれは、本を読むとともに実際に人と深く関わるなかでないと培うのが難しいものなのかもしれない、とも思う。

マイケルが娘に話をする場面は原作にはないそうだが、人に話せるようになるというのは、一応の区切りが自分でついたということだから、あり得る結末の一つとしての提示として、いいのではないかと感じた。

将来的にもし、「18歳以上の人が演じた15歳の少年の性交シーンがある」というだけでこの映画のDVD所持が禁じられることが起こったりしたら本当に馬鹿げたことだ、と思える、重いが見た翌日もいろいろ考えたくなる映画だった。
重さが隠されているとはいえ二人の自転車旅行のシーンの美しさや、「the」に丸をつけるシーンも忘れ難い。

また、パンフレットには、映画の中で朗読されたいろいろな本について紹介されているのが、出演者等のインタビューとともに、良かった。
原作の文庫本も買ってしまった。

朗読者 (新潮文庫)

朗読者 (新潮文庫)