『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』

過日、映画『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(大森立嗣監督)を観た。

以下、ネタバレがあります。


同じ施設で育ったケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は中学卒業後、施設を出て「はつり」という電動ブレーカーで解体工事現場の壁を壊す仕事につくも、先輩の執拗ないじめに遭い、職場を荒らし職場のトラックを盗んで二人で、ケンタの兄カズ(宮粼将)が服役している北海道に向かう。

ケンタが、職場のファイル類やテレビや事務机などを、両手を伸ばし体を軸に脚を大きく蹴り上げて一人でめちゃめちゃにしていく場面は、松田翔太も「アドレナリン出まくった」(パンフレット中の高橋悠による『撮影日誌』より引用)と語っていたけれど、(これは爽快だろうなあ)と思い、あくまでもセットを壊す、という条件でだけれどもやってみたくてたまらなくなった。ここまで魅せられるってまずいんじゃないの?、と自問したり、現実問題としてはちょっと硬いところに指や手の甲が当たっただけでアウチ! などと叫んで動けなくなるだろうことを承知してもだ。


途中で、彼らはちょっと頭のネジが外れたような「ブスでワキガ」のカヨ(安藤サクラ)と出会う。彼らはカヨを置き去りにしたりするが、カヨはついてくる。

カヨが「網走」について勘違いしたことをケンタとジュンは馬鹿にしたように笑う。そのあと彼らもほかの地名についての似たような間違いを犯すが、カヨの誤りと自分たちの誤りが五十歩百歩だということには気づかない。そのことが観終わったあとも、ずっと頭を離れなかった。


ケンタとジュンには「北海道」や「外国」といった見たことのない世界が実在するものとしてなかなか想像できず、壁の向こうに「光の存在」を感じながらも、何度も絶望に引き戻されてしまう。その鬱屈は自分にとって決して「よそにあるもの」ではない。

また、実際に人生を「選んだ」点も僅かとはいえあるのに、長いこと自分が「選べない人間」だという念にとらわれていたケンタを見ていると、自分自身の場合も、存在していた(いる)のに見過ごしてしまった(ている)「壁の向こうの光」が結構あるのではないかと思った。
ラスト近くのジュンの行動を初め、(彼らはこうもできたんじゃないか)、(いや、あれはあれで良かったのだ)と、映画館を出て帰宅してからもけっこう考えてしまった。何日もかかって、三人のそれぞれのラストについても、ようやく部分的に希望が感じられるようになってきた。

彼らの職場の場所が知っている場所に設定されていたこともあって、彼らが「高校に行きたかった」と言うと、(富も特別な才能もない者にとって、教育を受けられるということは、それまでいた抜け出したい環境から抜け出して、望む生活を掴むチャンスを広げ得る本当に貴重なことで、教育を受けられる環境にあったってことはすごく恵まれたことだったんだな)と改めて感じたりもした。


この映画には洞口依子さんも短い時間ながら登場する。
まだかまだかと思った末の登場だったけれど、洞口さんが松田翔太と対峙するシーンは、視線の迫力も、微笑みそうに何か言いたそうに蠢いて結ばれる唇も圧巻で息が止まってしまった。


どういうわけかいわゆる二世や兄妹の監督や俳優が多く(大森立嗣←麿赤兒の息子・大森南朋の兄、松田翔太松田優作・美由紀の息子、安藤サクラ奥田瑛二安藤和津の娘、宮粼将←宮粼あおいの兄、柄本佑柄本明の息子)、血縁者と似たところ、非なるところがいろいろ楽しめた。

温かいもの、やわらかいもの、芯を持ちながらもほわんとしたものの良さは自分でもよくわかっていて、そういうものがそばにあってほしいとも思うのだけれど、(カヨを母性に押し込めないでくれー)と思った。炎などのモチーフのつなげ方や変奏がちょっとかっちりしすぎな気もした。

けれども、若手俳優たちのすごいエネルギーを分けてもらった感覚もあって、できるだけ長く公開されて、たくさんの人に映画館で観てほしいと思える映画だった。
あと、(これ、買わなくてもサイトを読めばいいんじゃないの)というものも多い中、字がびっしりのパンフレットも充実していると思った。

公式サイト:http://www.kjk-movie.jp/