炎に吸い寄せられて  山種美術館

友人に誘われて、広尾の山種美術館で開催中の「開館1周年記念特別展 日本画と洋画のはざまで」を見てきた。

こちらはなんせ、展色材が膠(日本画)か油・天然ゴム(洋画)か、その混合物かさえよくわからない素人。
明暗法・遠近法等の西洋の技法を採り入れた日本画、岩絵具といった日本画の画材等を使った洋画が多数展示されていて、見れば見るほど(これ洋画風な日本画? 日本画風な洋画?)とわからなくなるものが多かった。

 意外にも昭和戦前期の官設展では両者をあわせて「絵画」という分類であったことはあまり知られていない。にもかかわらず、実際には日本画側も洋画側もそれぞれ「日本画」「洋画」の呼称を捨てることがなかった。区別不要論はつねに理想論として棚上げされ、具体的な解決がはかられることなく今日にいたっている。
 つまり、日本画と洋画が区別されてこのかた、その制度や慣例のみを存続させてきたのが近代日本絵画史の実態なのである。(中略)
 しかし、おそらく重要なことは、そのために日本画と洋画の「はざま」について意識的に議論されることがなく、また「はざま」に存在する作品、作家について真剣にあるいは正当に位置づけることができずにいたということではないだろうか。
(同展図録《「日本画」と「洋画」をめぐる問題》 古田 亮氏 7頁より引用)

これが、(そうだよね〜)というものなのかどうかは、私には知識がなさすぎて判断できない。けれども、こういうことは絵画だけの問題でもないのかもしれないなあ、とも思った。例えば小説において、小説を純文学とエンターテインメント小説とに分ける、展色材・画材・技法に相当するものは一体何なのだろう。ストーリー展開の重視具合? 常識をひっくり返す要素の有無? 描写の仕方? その中に、書き手や売り手からの要望でなく、読み手からの要望としての要素はあるのだろうか。


図録の文章を念頭に置いて振り返ってみても、印象的な作品はいくつもあった。
小川芋銭《農村春の行事絵巻》:『スーホの白い馬』の赤羽末吉風な淡く温かな色みの絵で、どんど焼きの準備(?)や魚の量り売りなどが生き生きと描かれていた。
奥村土牛《雪の山》:セザンヌの山の絵に影響を受けたというのが納得できる、簡潔で幾何学的な線と白、透明感あるオレンジ、グレー、黒でできた絵。日本画なのかこれ……。
・杉山寧《宋磁静物》:白磁の器を間に置いての、ミカンのオレンジ色と、洋ナシの黄緑色が鮮やか。もわもわしているけれどこれも日本画か……。
・山口蓬春《卓上》:洋ナシの、緑とうっすら緑がかった白との対比が鮮やかですっきりしている。
山本丘人《青の眺望》:明るい青と、木々の葉などに使われた銀箔とのモネっぽい折り重なり具合が様々な意味でキラキラしている。手前の朱と白の家もアクセントになっている。家に飾りたい。


しかし、何といっても最後に見た速水御舟《炎舞》(重要文化財)が圧巻だった。
オレンジの中に焦げるような赤が混じる炎が闇を背景に高く立ち昇り、何匹もの蛾が炎と煙に吸い寄せられるように舞っている。翅の後ろの方が透けていて、舞っている感と焼けている感が出ている。炎を中心に点対称っぽく配置された白い蛾(アメリカシロヒトリ風?)と水色の蛾(オオミズアオ風?)も美しい。

私は日頃、あまりに火を怖がるので「野生動物」と夫に呼ばれている。けれどもこの絵には、蛾のように吸い寄せられてしまった。

そして遠く離れて見ると(わざわざベンチが置いてある)、驚くべきことに、この絵は全く違った様相を帯びた。
フラメンコの衣装みたいなオレンジ赤のドレスを着た女性が、首に左手を当てて、《見返り美人》風にこちらを見返しているように見えたのだ。炎と煙から成る半透明なオレンジの上半身、胸から腰・尻にかけて蛾が乱舞しているから何とも色っぽい。下半身はドレスごとくっきりと燃えてしまっている。艶っぽい上に、ぎりぎりの瞬間が描かれた恐ろしい絵だと思った。胸が苦しくなって、連れて行ってくれた友人にもとうとうこのことを打ち明けることができなかった(ごめんねー、○ちゃん)。

しかしまあ他人様から見れば、「風呂場の黴や天井の木目が人の顔に見える」という小学生と同類かもしれませんね(笑)。でも、今思い出しても胸がドキドキします。また、若い頃だったらこんな風には見えなかったかもしれません。

詳細はこちら→山種美術館のサイト:http://www.yamatane-museum.or.jp/index.html
11月7日まで。