ずっと見ていたい 「マコトフジムラVS若手作家 日本画最新事情」展

過日、信濃町の佐藤美術館に「マコトフジムラVS若手作家 日本画最新事情」展を見に行った。

マコト・フジムラ(1960年〜)については、以前、同美術館で開催されたサラリーマン山本冬彦氏のコレクション展(そのときのことはhttp://d.hatena.ne.jp/rvt-aa/20100219/p2をご参照下さい)を見に行ったときに、水彩のような群青や黒で夜の川が描かれた《二子玉川》という小品が印象的で、オルセー美術館展でゴッホの《星降る夜》を見たときも、その作品のことを思い出していた。

会場に入ると、岩絵の具や金箔・銀箔を用いて描かれた、飛沫や液垂れ、掠れが見られる抽象的な作品がいくつも目と胸に飛び込んでくる。

一番最初に見た《Azurite on Dark Silver》は56cm四方の小さめな作品だけれど、平面であるにもかかわらず、セルリアンブルーや群青の上に透明なアクリルか何かでできた板があってその上に金箔が薄い雲みたいに浮かんでいるような、また別の金箔は・銀箔は群青の底に沈んでいるような、不思議な立体感があって(持って帰りたい!)と見入ってしまった。

色が流れて融け合ったり垂れたり、違う色同士がきわどく接し合ったりし、その上で岩絵の具や金銀の箔が鉱物っぽくきらめいたりするのに、自分の感情もシンクロしてさざめくような気がした。少し胃も痛くなった。その点はマーク・ロスコの絵を見たときの感じに似ている。

そもそも、もし自分が絵が描けたらまさにこういう日本画を描きたい、という感じの絵なのだ。
大竹伸朗の、《網膜》シリーズにも通じるものがあるように思う。
辰砂やラピスラズリは小さな原石が家にあるので、(あれを砕いて絵の具にするとこうなるのか)とも思った。

マコト・フジムラ氏は米国育ちでキリスト教徒だそうだけれど、作品の、静謐さを持ちつつ見る側の感情を引きずり出し揺さぶるような感じ、ずっと見ているとこちらの気持ちが鎮まり祈りみたいな気持ちに変わっていく感じというのは、もしかしたら信仰とも関係があるのかもしれない。


《Grace Foretold(恵みの前兆)》は、最初金箔の貼られ方が少しうるさく感じられたけれど、何度も見るうちにそれは気にならなくなり、マスカラが溶け出た涙のような墨っぽい黒さを端々に滲ませる画面中央から右下にかけての青と白の清々しさと、画面左上で金箔の上から少しずつ降り注ごうとしているような赤の明るい華やかさとの対比がハーモニーのように感じられるようになった。何か未来が開けてくるイメージがあると思った。
でも、2005年の個展のパンフレット『マコト・フジムラ展 Works From 2002-2005』でマコト・フジムラは、「美が犠牲を伴うということ」という哲学者今道友信の指摘を引用した上で、

つまり、岩絵の具は砕かれないと神髄の美を表すことはできない。(中略)美とのコラボレーションはその犠牲を考えることでもある。その思想は私にとって、「ほふられた小羊」であるイエス・キリストの犠牲の「美」に何か以外(ママ)な鍵が潜んでいるようにも思う。

と言っているから、もしかしたらこの赤はイエス・キリストの血なのかもしれない。そうすると、また赤の印象が少し変わってくる。

180cm四方の《The Still Point-Morning Stars》は、右上の群青に星みたいに浮かぶ点がラピスラズリの金そのものに見えていたのに、目を凝らすと白っぽい絵の具だったので驚いた。
最新の作品には、金銀の箔は使われていなかった。


若手作家の作品では、兵士や戦闘機やネッシー(?)や鳥が広い画面に散らばる三瀬夏之介の《J》、睡蓮の葉などに用いられた緑系のカラー箔の濃淡とアメンボやザリガニなどの調和が美しい神戸智行の《陽のあたる場所》、荒井経《景色2006.9.18 8:34》が印象的だった。
荒井経の作品は、江戸時代に舶来した「べろ藍」(プルシャンブルー)が綺麗で、てっきり静かな海の光景だと思っていたのに、夫が「海か陸かわからない。津波かもしれない」と言うので再び見てみたら、海だと思っていた所に針葉樹の森のような影が認識できた。ベろ藍の上の白もこちらに向かってくる波頭かもと思え、明かりのような点々も、船の明かりにも街の灯にも見えてきた。

2日後の11日(日)まで。
公式サイト:http://homepage3.nifty.com/sato-museum/exhibition/index.html