私は色付きが好き 長谷川等伯展

上野の東京国立博物館に、「没後400年 特別展 長谷川等伯」を見に行った。

長谷川等伯(1539〜1610年)は信春の名で能登七尾生まれの絵仏師として活躍後、33歳頃に妻子とともに京都に行き、豊臣秀吉らに重用されて51歳頃から大徳寺三門の天井画を初め寺院用等の数々の水墨障壁画、金碧障壁画を描いたそうだ。
かなり遅咲きの人なのだと初めて知った。


初期の作品は朱に近い赤(朱そのものかも)が目についた。
・善女龍王像:少女の衣服と背後の白龍の背びれに赤。龍がエロい。

三十番神図:一日一日に一人ずつ神様がいるという暦みたいな図。衣服の色と背景が各日で違うのがカラフル。

上洛してからの作品はサイズも大きいものが増える。寺の主である春屋宗園が留守中に勝手に上がり込んで襖絵(山水図襖)を描いたり、秀吉が亡くなったため自分の絵を御所で展示させてもらったり、エピソードだけ見てもなかなかパフォーマンス力のある人だったようだ。

狩野派隆盛のところに割り込んで、一門として頭角を現していったのだから、社交性や政治力も相当あったのだろうと思う。
「一門」と聞くと、(等伯本人はどういうところを担当していたのか?)とか、(等伯の名の下で、実際に筆をとったり、施主等と折衝したり、そろばんをはじいたり、顔料を用意したり、出来上がった絵の管理・修復をしたり、といった無名の人々が、規模はわからないけれどたくさんいて、それぞれ苦労していたのだろうなぁ)と思わずにはいられない。
等伯の死後、「長谷川派」というのは特に聞かない。これらの人々はその後どうしたのだろう。


上洛後の作品としては以下が心に残った。
◎楓図壁貼付:金地に巨大な楓の木。中央よりやや左方、ライトが当たっているところの楓の葉の、鼠がかった白っぽいピンクの中に盛り上がる肌色に近いピンクが何より印象的。枯れか虫食いで葉が薄茶色になったところも混じっての赤い葉、緑の葉、鼠色がかったピンクの葉が枝に群がっていて、後ろには藍色の池らしきもの。
秀吉が息子の鶴松を弔うため描かせた旧祥雲寺(現存・智積院)の金碧障壁画だが、完成直前に等伯自身の息子が亡くなったと「日曜美術館」で知るとそれらの葉の下で伸び上がる赤い鶏頭が、弔う等伯の涙や血にも見えてくる。

千利休像:食えない感じが、平らかな目と微妙に歪んだ唇によく出ている。

○波濤図:上下の金雲に挟まれて岩と波濤を覗き見している感じ。岩は勢いある直線が多用され、後ろの波は線間の間隔が広くて略されているのもいい。

・仏涅槃図:とにかく巨大。参拝者が詳細に目にできる手前に白象、獅子、駱駝、猫、馬、鹿、雉、虎、山羊、猿などたくさんの動物が描かれていて、目を閉じて哀悼の意を表しているものが印象的。以前の絵に比べると動物の配置も変わっているし、沙羅双樹は葉のみで花がない。

・枯木猿猴図:猿がかわいいが、近くで見ると毛が試験管ブラシのように針っぽいのが厭。爪の曲がり具合などは大変いい。

・竹虎図屏風:虎がかわいいが、近くで見ると毛がお父さんのすね毛みたいなのが厭。

・松林図屏風:夫は「これを見ながらゆっくり酒など飲みたい」と言ったがとんでもない。この絵には、子供が木を見て「怖い」と思う要素が詰まっている。だいたい、松の根元がくっと曲がって持ち上がり、ものによっては鳥の足のようなのだ。今にも歩き出しそうだし、幹もくねくねして枝ぶりなど「ちょっとあーた!」と腕を伸ばしているようだったりひそひそ話をしているようだったり、とにかく怖くて自分の家には絶対置きたくない一品。
目覚めてうす暗いところでこんなものが見えた日にはもう……。
模写だという作者不明の「月夜松林図屏風」の方が覇気はなくても、もわもわと霧に包まれた松林の中にいるようで落ち着く。

私がどうしても細部に目がいってしまいがちなのに対し、夫は全体の感じ(安定している、流れる、勢いがある、対立構図があるなど)を重視しているのも面白かった。

公式サイト:http://www.tohaku400th.jp/
3月22日(月)まで。なお、13日(土)22:00からテレビ東京美の巨人たち」で「松林図屏風」が取り上げられるようです。