「低開発の記憶−−メモリアス」など  キューバ映画祭2009

渋谷ユーロスペースで開催されている「キューバ映画祭2009」に行き、「低開発の記憶−−メモリアス」(1968年)と「ある官僚の死」(1966年)を見た。いずれも、監督はトマス・グティエレス・アレア

以下、多少ネタばれがあります。


低開発の記憶−−メモリアス」は、題名からほとんどドキュメンタリー映画なのかな、と思って始まる前にちょっと身を硬くしていたが、意外にも、ものすごく乱暴に言うと、ブルジョワ階級38歳男性セルヒオが女性をナンパする話だった。キューバ革命からまもない1961年が舞台だ。
とはいえ、途中で主人公が胸のうちで言う「彼女も低開発なのだ」、「経験を積み重ねてそれらを発展させることができない」(うろ覚えです)という台詞は自分の胸にも突き刺さったばかりでなく、主人公自身に向けられた言葉でもあると感じた。もちろん元はキューバの現状に向けられたものだ。
映画の中のキューバの姿は、主義主張は別にしても、将来の日本にとっても他人事でないものかもしれない。
当時の実際の映像もふんだんに出てきて、責任の所在のあいまいさを示すエピソードなど、どこからが資料映像なのかわからないところもあった。

不勉強で「低開発」という言葉は初めて見聞きしたのだが、上映後のトークイベント(太田昌国氏、岡田秀則氏)で、当時は経済用語として広く用いられていたこと、革命後もあまり発展しないキューバの状況がアメリカの長期的な経済支配によるものだと考えられていた一方で、すべての原因をそこに帰するのは違うのではないかという意見もあったこと(映画でも出てくる)なども知った。
主演男優(セルヒオ・コリエリ)の、浮つきも不遜さも苛立ちも目と眉で表現してしまう演技もとても良かったと思う。
革命を見ていたい、と思いつつも自分が持っているものが失われ、理想とするものが遠のき、街が革命に高揚しながら戦争に向かっていく事実に直面するジレンマみたいなものがにじみ出ていた。


「ある官僚の死」は埋葬をめぐるコメディー。いたるところで官僚主義が笑いという形をもって批判される。途中やや冗長だと感じられたが、思ったより笑えた。背景となる国や経済状況は違うけれど、放送コードの限界に果敢に挑む某アニメや、笑福亭鶴光の落語「ぜんざい公社」を思い出した。

公式サイト http://www.action-inc.co.jp/cuba2009/