そこでこそ、というもの  大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009 2

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009」の続き。
里山や廃校、空家がアートの一部あるいは背景であるだけに、
・これまでの時間の流れや生きてきた人たちの息遣いみたいなものを感じられる、
・そこにあるものが生かされていると感じられる、
・アートがあることで何か風景が違って見える、
など、「そこにある意味」が強く感じられる作品に惹かれやすいんだなあ自分は、と思った。

再び印象的だった個別の作品。
・滝沢達史《やまもじプロジェクト》白布で大文字焼きのようなことをする。象形文字(?)の「山」という文字は公募、「山」を構成する白布には町民等1万人の願いが描かれているというものなので、たくさんの人が「参加した感」が得られそう。


・李在孝(イ・ジェヒョ)《0121-1110=109061》丸太で球を作るという発想が面白いと思った。しかもアイスクリームについてくる木の匙のような断面も含まれている。なんでこの形なの? また、三つ並んだ球の太陽の光が当たっているところが有明の月みたいに光っていて、どちらからどのくらい日光が当たるかなど考えたことがあまりないので印象に残った。


アントニー・ゴームリー《もうひとつの特異点》梁と柱を残して構造補強したという空家に黒漆を塗った上に、ワイヤーだろうか銀の丈夫な糸が、棘がものすごく長いウニのような感じで張り巡らされていて、一定の角度から見ると立体的にポリゴン的人体(ゴームリー氏の体がモデルとのこと)が浮かび上がる。ワイヤーがこんなに美しい色に見えるのは古民家の暗がりのせいもあるかも。木の床に寝そべったりワイヤーのあいだをくぐり抜けたりしながら見るのも楽しかった。


田島征三《鉢&田島征三・絵本と木の実の美術館》廃校になった旧真田小学校を舞台に、最後の卒業生の3人の子供たちや子供たちの笑い声や楽しい思い出を食べるのが好きな妖怪が、夢や希望を壊す妖怪と闘ったり活躍したりする話が、流木や木の実を使って立体的に表現されている。とにかくカラフルだし、入口のししおどし風オブジェ「バッタリバッタ」の原動力で時おり人形が動くのも見られる。子供が壁を突き破って校外に飛び出していくシーンが特に頭に残っている。


・平野薫《無題》作家の祖母の古着(白い割烹着かエプロンのように見えた)を解体し糸屑を再構築した作品。白い糸がレース編みのように旧名ケ山小学校教室中に繊細に広がっていてきれいで、かつ時間を感じさせる。どうせならこの小学校の給食婦さんなどの服を素材にしても良かったのでは。


・森弘治《質問のワークショップ》地域の人々が語る「質問」が音声で流れる。場所により田や山や家々が小さく見える旧名ケ山小学校の屋上(写真右)で「どうして人は苦労するのか」、「自分は何歳まで生きるのか」といった肉声が聞こえてくると胸を衝かれた。


大野智史《Primeval Forest as Maternal》廃校となった旧名ケ山小学校・現福武ハウスの体育館を舞台に、エネルギッシュな妊婦・両性具有のいわゆるふたなり女性らの絵が床の砂絵とともに立ちはだかっている。夫「弐瓶勉(漫画家)を思い起こす」ここでなくてもという気はするが、大きさや素材に圧倒された。


・ペルラ・クラウセ《石と花》真っ暗な家の中に、メキシコの岩塩をも思わせるピンクやオレンジ、薄いブルーなどの半透明な石をかたどった樹脂が吊るされ、壁に投影される桜の花などの映像に照らされて光っている。大きな石も床に置かれている。二階は明るい。家の周りに造花の花の道もある。よく考えると、花は、空家になる前もこういうのがあっただろうなと思うけれど石は? 降るような星空や雪崩、落石などの意味も込められているのか? でも、見ている間はただただきれいだ、とうっとりしていた。


イリヤ&エミリヤ・カバコフ《棚田》これが目に入ると(農舞台に来たなあ)と思う。


・河口龍夫《「関係−−黒板の教室」》床まで黒板であることに、夫の指摘で初めて気がついた。せっかく許されていたのだから、指定の場所に落書きしてくるんだった。


・船曳和代ほか《クモ−−一本の糸からはじまる宇宙》濃いブルーの台紙に、さまざまなクモの巣が採取された標本や生態等の説明板が展示されている。クモの家を奪っている非道な作品ではあるわけだが、美しい。


・オノレ・ドゥオー《地震計》巨大釣竿の先端にあるガラスの玉が光って美しい。

予想外に長くなってしまったので、3に続きます。